大乗仏教と小乗仏教について(或いは人間の理想像について)


 例えば、ある一つの宗教施設を完成させる為に、1人で、1つの重さが10キロでバラバラの石が1トン目の前に有って、これを1人で10メートル動かすとしましょう。

石の数は100個です。

大きなバールを買って来て、てこの原理を使って、転がします。1回に10センチ転がるとして、1つの石に対して、100回の同じ作業を繰り返さなければなりません。

石が100個有ると、同じ作業を1人ですれば、1万回同じ作業をせねばなりませんね、、

僕は、それが「小乗仏教」だと思います。

これに対して、100人が同じ事をすれば、一回の作業で済みます。
これが「大乗仏教」です。

、自分一人でやる事が仏道修行の完遂となるのか、他者と強調して目的を成し遂げるのが仏道なのか、僕には分かりません。

前者は独裁的で、超人思想の持ち主だし、独りよがりです。

また、後者は、係わる人数が多すぎて、目的が、多数の人の意見に左右されて、結局意図した物と合致しない物が出来上がる可能性が有ります。

これも又、望んだ結果が得られるとは思えません。

 
僕はこの世界の成り立ちは、人々の人生の究極の均衡において成り立つべきだと思っていますが、こと宗教の問題となると、独裁的色相が優先するのは当然の事と考えています。

それは何故かというと、宗教は日常の生活とは一線を画す、特別な人間の心の作用だからです。

悟りが究極の美だとすれば、たった1人の天才がそれを成し遂げるでしょう。

しかし、人類がその域に到達するには何兆年もかかるであろうと観念した挙句、お釈迦様は「中道」という道をお示しされたのです。

人の世は、互いの都合により、相関関係により構成されねばならないのです。

その為には、互いのエゴを捨てて、譲り合うところは譲って、現状を維持する他はないと。

やがて数億年後に、何度も何度も生まれ変わった菩薩が、人の世を救い、如来への道しるべを示し、人は苦しみの輪廻から抜け出すことが出来るであろうとお示しになったのです、、

この点が、キリスト教やイスラム教の教えと、似て非なる点なのです。

あくまで一人の神様が存在して、その神が人間を救って下さる、という思想ではなく、人が修行を得て、全知全能の存在になる事を目的とした、非常に実践的であり、とても厳しい教えなのです。

あなたはどう思いますか?



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