法話

ここでは不定期に仏様の御教えを簡単に面白くお伝えしていきます。

お釈迦様ってどんな人?

お釈迦様は、今から2500年ほど前にインド北部、現在のネパール地方で、小国、シャカ族の王子としてお生まれになった方です・

 弱小国と雖も、将来を目された国王候補の王子さまでありました。しかし幼少のころから、人生の儚さや人間の罪深い営みに対して深い.憂慮を抱いておられました。長ずるにつれて、近隣の強国の領土争いを目の当たりにし、又自国の紛争に心悩まし、人はなぜ、不毛なことで争わなければならないのだろうと、深い疑念を抱かれました。
 又、城の内外では、日々の食べ物にも事欠き、苦しんでいる民衆を見て、心を痛めておられました。
 王族に生まれようが庶民に生まれようが、人の人生は如何に儚くもろい事であるかを、幼き心に刻み込まれたのです。
 
 ある時お釈迦様が、馬車に乗って遊びに出かけようと、東の城門を出ると、老人が腰を曲げてよぼよぼと歩いているのが見えました。
 他の日に、南の門から出ようとすると、そこにはうずくまった病人がいました。
またある時は、西の門から出ようとすると、そこには死体が横たわっていました。
そのような光景を見て、「ああ、人間は生老病死の苦から逃れる事は出来ない、人生は諸行無常である。普遍的な事など一つもないのだとの思いをいっそう強められることとなったのです。
 そしてついにある時、北の門から出かけようとした時に、出家者と出会い、自分の生きる道はこれしかないと考え、、出家の道を選ばれました。ここからお釈迦様の長い長い求道の旅立ちが始まったのです。
お釈迦様29歳の頃の事でした。
 
 しかしながら当時のインド社会は、ヒンドゥー教やバラモン教、ジャイナ教など多数の習俗的宗教が蔓延していて、宗教の世界は混とんとしていました。ですから当初はお釈迦様も、いろいろな出家者、宗教者の教団を訪れて、試行錯誤の修行を繰り返されました。例えば全身を土に埋めたり、呼吸を断ったり、断食をしたり、目を潰したり、といった無意味な苦行に身を投じましたが、これでは真の悟りに到達することはできないと悟られ、、一人、自分の正しいと思える修行に身を投じられたのです。それは主に瞑想を中心とする深い思惟によるものでした。

 そしてついに35歳の時に深い瞑想の末、永遠の悟りを開かれました。それから、これまでの修行仲間などや、老若男女がお釈迦様を慕って、弟子にしていただくべく、続々参集して、一大教団を形成するに至ったのです。
 とはいえ、当時はバラモン教全盛の時代、お釈迦様のような思いが人々に受け入れられる余地は決して広くは有りませんでした。今でいうカルト、新興宗教のようなものであったろうと思われます。
 
 狭い共同体で新しい考え方を持つと、旧来の既得権益に迫害されます。例えばお釈迦様の直系の弟子である、日本の曹洞宗の開祖、道元禅師におかれましても、天台宗や、真言宗を始め、護国仏教とされ朝廷から庇護されていた古代仏教からの迫害がひどかったようです。
 
 とまれ、お釈迦様は出家をされて、独自の教化を始められました。
お釈迦様の布教に当たっては、まずは人の出自、素性を厭わず、富貴貧富の差を問わず、男女性別を問わず、他教の信者であるかを問わず、在家、出家を問わず、皆を平等とみなして、自身の考えを教化されたのです
お釈迦様の初期の信者には、泥棒、強盗等の犯罪者、娼婦等、社会的に虐げられた人々が沢山おられたと言われています。

 さて、お釈迦様の辿った形跡は、いくらでも専門書が出ているのでそちらに譲るとして、本コラムでは、拙僧が理解したところの、お釈迦様の教えの方を、見ていくことにしましょう。

 お釈迦様の悟った知恵の中で、私どもの実際の生活に最も深いかかわりがあるものといえば、
「因果応報」、「諸行無常」、「諸法無我」、「色即是空、空即是色」といった、今日でもよく耳にする教えでしょう。
 これらの教えは、難しい経典を紐解かなくても、誰でも何となくは理解できます。が、それを日常に生かすことはなかなかできる事ではありません。
 
例えば
「諸行無常」
親や子供、配偶者など身近な人を亡くした人たちや、、あるいは例えば事故や大震災等で突然命を落とした人たちにの遺族の方たちなどに、「人の命は儚いもの、いつかは壊れゆくものなんですよ、と諭すことは、遺族の心や故人の魂を慰める一助となりますが、常日頃からその考えを頭の中に置いておかないと、急には、御不幸を受け入れることはできません。でも、常にそのように考えて日々を送ることが、仏道における修行なのです。

 理解不能の宇宙の存在、その中の無数の星雲、銀河の中の太陽系の中のちっぽけな自分の存在、こんなもの、どこに保証が有るでしょうか?自然界の法則がちょっと崩れれば、自分達などすぐに崩壊してしまうのです。だからこそ人々は無益な争いを避け、お互いの存在を尊重しつつ、自分の能力を最大限発揮し、自分の命を精一杯に行き切らねばなりません。これが「諸行無常」の教えの説く所です。
 
「諸法無我」、これも同じような教えです。我々は、自分自身(我)が、自分の行為の主体者であると思っていますが、ほんとうにそうですか?「我」などないんですよ。あるのは他者の集団の中で規定された、行動をする主体があるだけで、自分、自我などは他者とのかかわりの中で相対的に存在するにすぎないのです。そう考えると、日常の怒りや不満が少しは収まるでしょう。
発想の転換です。そういう考えを日々実践することが、仏道修行なのです。

 
色即是空、空即是色。「色」とはこの世の現象の事を表します。「この世の現象は空だ」という教えです。何か大きな存在から見れば、何も無いに等しいという事です。ゼロです。でも、ゼロは、確かにあるんです。そんなもんだと考えれば、日々の些末な悩み事は、無くなりませんか。

 以上述べたことで重要なことは、人間は自我が肥大しすぎていて、苦しんでいるという事です。得られないものを求めて、苦しんでいるという事です。

そして、
「因果応報」。自分の自我が、いくら善行をなしていると自分で考えていても、それは他者が判断することであり、諸法(全体の実相)のなかで、あなたの行いが悪事であれば、その行為は悪事となってあなたにそれ相応の報いをもたらしますよ、という事です。ですから常に他者の事を考えて、人の役に立つように行動すれば、あなたに必ず良い結果が訪れますよということです。

このように仏の教えを紐解いて、現代人の生活に適用させていくと、本当に理に適っていて、有用だと思いませんか?

 日本という国が、これだけ素晴らしいのは、ほとんどの人(悪人とされる人も含めて)が、古より、これらの仏の教えを、地域共同体を中心として守り続けてきたからだと、私は考えています。

法話2